子どもたちによるシュシュ会議
- あゆみ 加藤
- 4月25日
- 読了時間: 4分
更新日:4月30日
クラス・ド・シュシュ恒例のシュシュ会議。

児童たちが学童で共に過ごしながら、気付いたこと・気になること・訴えたいことなど…
それらについて、じっくり議論が行われる会議。月に1度くらい開かれる。

いい大人からすると、申し訳ないが、正直やきもきする。
誰もが経験したであろう。
退屈な会議。不毛な議論。マウントを取りたい欲に駆られた主張や、自己満足の揚げ足取りなどなど。
思うことはあっても、出る杭にはなりたくない。巻き込まれたくない。無難が一番。
暇つぶしに、自分の今日のタスクを頭の中でのんびり整理する。
そしてたどり着く(今日の夕飯なんにしよう)
私(Jongsu)はこれまで、進行側に立つことが多かった。
参加者たちの(今日の夕飯なんにしよう)は鮮明に見える。何なら音として聞こえそうな程に。
いかに早く終わらせるか。一つでも結論、同意形成にこぎつけたい。この狭間で揺れながらも、
こっちだって(今日の夕飯なんにしよう)である。
しかし、会議で大声を出せる人よりも、夕飯なんにしよう勢の中にこそ、
組織の中で貢献している人物が多いのは不思議なものだ。
(今日の夕飯…)にたどり着くスピードが可視化できれば、
そちらの方が有意義なバロメーターだろう。
話を戻そう、シュシュ会議。

テーマ出し、グループセッション、発表、すり合わせ、まとめ…
こんな面倒な過程を、オッサン・オバサンが台無しにする様は腹立たしいが、子どもとなると別。
あーもう!!口を出したい!!が、ここは我慢。大人の器の見せ所。
微笑ましさを全身に浴びながら、ただただ「カワイイ」に浸る時間も悪くないと切り替える。
子どもたちの自主・自律・自発を待ち、こちらも学ぶことの多いこと。
なんせ、ほぼ全員が出る杭!

先生たちが気を付けるのは、その杭が叩かれないこと。
「ポジティブに言うとどうなるの?」の声掛けがたまに。
相手を押しのけたい丸出しの傲慢な杭とならぬよう、まっすぐちょこんと出してあげる。
協調・親和・団結という皮をかぶった同調圧力なんてものは、これから嫌というほど味わう。染みつく。
私はいつも、どんどんトガれ!シュシュキッズ!と心の中で応援する。
案の定、発言したい挙手合戦。テンションマックス。実は、このテンションにたどり着けただけで、
その会議には意味がある。今日の夕飯はまだ考えていない。大成功。
進行役の最年長の児童は、進行予定時刻に忠実で、クールにさばくタイプ。見習いたい。
○○ちゃん、やっと回ってきた自分の番に意気揚々と熱弁しているが、
それは前の前に出た発言の焼き増し。
(うん、あり。)
一生懸命考えて、よく表現できました。と感心する。
そのまま受け止める。
一部の上級生は「焼き増し」に気付いているが、その子たちも微笑ましさを感じているよう。
下級生を見守っている。
同学年では生まれない、多世代が集まれる空間でこそ得られる感覚だろう。
同学年という平等は、実は恐い。平等、公平…それらが保証されること、世間に実はあまりない。

当然なかには消極的な子もいる。しかし、先ほどの(うん、あり。)が何度かあると、
安心が生まれる。出る杭になっても、ふわふわと浮き出してしまっても、
大人は叩かない。上級生も叩かない。あいつもこいつも叩かない。
下級生はトンデモ発言。だから自分も叩かない。
(うん、私もあり。)手が挙がる。
満を持して飛び出す、的外れな発言の数々!!
愛おしくてしょうがない。
もちろん小手先の技術は成長と共に覚える必要はある。論理的思考力、プレゼン力etc…
しかし、まずは集団の中で自分の足場を確保できる自信。
グローバリズム。多様性。広い世界に目を向ける。そこには無限の可能性。
しかし、そこを見つめる目線だって、立っているから広く開ける。
転んでいては、ふらついていては、逃げまどっていては、目線は下がり狭まるばかり。
私はここに立っているんだ。と自分が認識できる自己肯定。
他者への干渉なんて、そのあとについてくれば十分だ。
シュシュ会議を経て、自分たちが定めた目標を共有し、今日も児童たちは過ごしている。

